実家を出ていく、出ている
24にして初めて実家を出て、新居で一人泣いている。
母がくれたぬいぐるみを荷物から出して、涙が止まらなくなってしまった。
私にとって、それだけ大きい人だったんだなと思った。
と、かいたのも数日前。まだ引っ越し準備しかしてない。ちゃんと引っ越すというか、新居で寝るのは明後日からだ。
Xデーが来た。実家を出るのが寂しくて、昨晩は沢山泣いた。
彼女が作ってくれた晩御飯を食べた。おいしい。
この数日、今までに味わったことのなかった孤独を感じた。友達はずっと少なかったけど、大好きな家族がいたから寂しくなかったんだろう。
これよりもだとずっと深い孤独が世の中には沢山ある。俺は甘ちゃんだから、そこには行きたくないな、と思う。
矢野顕子さんの「ごはんができたよ」が沁みる。帰る家がある幸せがある。つくづく恵まれている。
負けている
俺は人生に負けているという気持ちがある
大負けだ
この劣等感はどこから来ているんだろう
年収が2000万とかになったら治るんだろうか。いや、治らないと反語にしたかったが、全然治りそうな気がする。やってみないとわからない。
小さな頃描いた夢、今描く夢、どれも今の自分とは程遠い。
最近は退屈
最近、人生の見つめ直しみたいな時間が増えている
一言ベースで羅列すると、
- 人生、退屈
- 仕事、カス
- あのちゃん、神
大体そんな感じだろうか。
仕事のカスさ∋人生の退屈さ
ではある気がする
仕事ってカス。今の仕事がカスなのか、仕事とはそのものカスであるのか、という話をすると、明らかに今の仕事がカスである。カスでない仕事もあるのだから。
「仕事ってそんなもんだよ」などと言う人もいるが、そんなのは気休めにもならない。
カス仕事のことを、俺はゴミ捨てだとか玉拾いだとか呼んでいるし、草むしりという人もいる。
まあそういう仕事だ。
(ちぃかわの「草むしり検定」って、労働者のメタファーってこと?)
しかも上司が、小学校でいうところの掛け算の順番を気にするようなタイプだったり、キレるとハサミを振り回すタイプだったりするので恐ろしい。
そんな環境なので大人しくしていたら、上司のそのまた上司から、もっと上手くやってよみたいなことを言われたりするので、あなたはもっと現場を管理してくださいよという気持ちになり、上から下までカスだなあと、思う、、、、。
別に、誰がどう上手くやったら良かったとかの話ではなく、経営と人事の問題だと思うんですよね、私。
会社ってそんなもんなんだろうなあ。嫌だなあ。
それはそれとして、もっと大きな枠組みとして、人生の退屈さみたいなのがある。
俺は善く生きるということをずっと考えてきて、その中心に愛というものを据えていた。
けど、それだけじゃ足りない気がしてきた。
もっと野望とか、バイブスとか、祭りとか、狂気とか、我儘さというか、そういうのも必要なんだなあって思う。
勿論、中心には愛があるとは思っているけれど
祭りがない、祭りをやりたい
愛と狂気
祈りと祭り
静と動
そういう対比の仕方ができると思っていて、左はよくできていると思う。右をやりたい。やらなくちゃいけない。両方やっての人生だと思う。
あのちゃんのライブは最高の祭りだった。もう一週間くらい経つけど、余韻が止まない。あれからこのことばかり考えてる。
考えてるだけで辛い 動きたい
anoの武道館ライブに行った
良すぎた。言いたいことが多すぎる。
舞台演出とかもano自身で考えたそうだが、信じられないほど完成度が高かった。ホラーゲーム風の演出やメリーゴーランドからの歌い出しだとか、「デリート」の間奏とか、、、本人のいない時間すらもずっと目が離せなくて、つい体が強張ってしまった。
てかあのメリーゴーランド何?円形ステージ活かし過ぎだろ、、、、舞台、光、anoというキャラクター、全てが噛み合った最高の演出や、、、、
次は何をしでかしてくれるのかと、驚きの連続で、勿論たくさんの人の力を借りてのものではあるのだろうけれど、anoの底力というか、底知れなさというか、エネルギーを感じたライブだった。
言うまでもなく歌もやばい。僕自身、そう頻繁にライブに行っているわけではないが、過去一番声が出ていたと思う。
これまでのところ、僕はanoの歌に対して、心に響いてくるエネルギーというか、叫びというか、そういうものを魅力に感じていた。けれど、なんか今回、そもそもの歌がうま過ぎた、、、。パッと思いつくトップシンガーと比べても遜色ないものだと思う。勿論元々あった魅力は減るどころか益々増していて、もうやばいと言うしかなく、、、、、、
演奏も最高!!!(╹◡╹)
ギター一本と歌だけで武道館のステージを我が物にしていました
本も書くらしい。なんか知らんけどファッションブランドか?なんか新しいのも出すらしい。
世間はAIとか言っている場合ではないし、GAFAのAはanoのAなのでは?と思ったりしたが、とにかく目が離せない。すごいライブだった。
もっともっと羽ばたいて欲しいし、俺も負けてられない。
感慨ふわふわ
職場の、こ、この人〜って感じの人がやめ(させられ)るという話を急に聞いて、ファー、と思った。
僕も陰口を言ったり上司に文句を吐いたりしていたので、良かったじゃん、という見方もあるのだけれど、その人なりに苦労していたのは知っているので、勝手ながら、遺憾の気持ちも抱いている。
この人なりに頑張っているんだから、という気持ちと、けどこの先、この人と仕事するとなると溜まったもんじゃない、という気持ちとがあり、結局後者の気持ちばかり吐いていた。
この件で、陰口でも言わなきゃやってられん、という側の人の気持ちを学んだ。
にこやかな人が僕の陰口を言っていたということも過去あったが、僕もその側に立ってしまったし、それは何も特別なことではないことを知った。今も他の誰かが僕の悪口を言っていたりもするのだろう。
飲み会に行けば、色々な不平不満が聞こえてくる。
どう生きていくのか、若い今のうちに選ばないといけない
オレの地元、サイキョーだからという雰囲気は
抽象概念にも発生し得るもので、例えば(任意の抽象的存在A)を好きな人々はAがサイキョーであって、それを好きなオレらもまたサイキョーなのだから、という空気でいるからサイコーな気分になったりするわけである。集団的な陶酔。
個による陶酔と集団による陶酔は別物なのか、そうではないのか。集団の大きさは陶酔の深度に影響するのか。
仮説としては、個による陶酔も集団による陶酔とあまり変わらないなのだと思う。個による陶酔として考え得るパターンその一、創作物。二、ドラッグ。三、収集癖。四、なんだっけ、忘れちゃった。
この三例で考えると、一は言うまでもなく抽象的な他者との関わりがある。二、三はこれまた想像考えると、自然と、収集対象の一体なのかなと思う。本当に?
収集して陶酔するとはどういうことなのだろう。本当に何?マニアって理解できないな。話を聞いてみたい。
陶酔って何?
前に考えていたところでは、一体感、すなわち自己境界の解放だと考えていた。
その時の言葉で語ると、人には大きく分けて、死に向かう喜びと生に向かう喜びがある。言い換えると、エントロピーの増大と縮小とも言えるし、自己境界の縮小と拡大とも言える。拡大縮小は的を射ていない気がするな。境界の曖昧さ、なめらかさである。
わかりやすいところで、酒を飲むと自己境界は曖昧になる。これが陶酔と同値であるかはわからないが、重なる部分はありそうだ。
陶酔するとき、境界は曖昧になる。感覚的にこれは真だろう。
となると、自己陶酔ってなんだ?自己の境界を保ったまま、何に陶酔するというのだろうか。
この過程には、自己相対化と、相対化した自己との一体化があるかもしれない。
そもそも、陶酔にも色々あるだろう。麻薬にもダウナーとアッパーとがあるらしい。快楽を司る脳内物質も色々ある。
つべこべ言う前に論文を読んだ方がいいんだと思った。
うーん
7/16
うーん、と恋人がよくいう
元気がしばらくない。おれの。労働はやめた方が良い。
労働をやめたい。
金を右から左に流す仕事をして何が嬉しいんだと思って、就活には身が入らなかった。
私は今、金を右から左に流せるかどうかすらわからない仕事をしている。
あまりに面白くないが、逃げる足は失くしてしまったので、どうしようもない。
と、思い込んでいる。きっとやりようはあるんだろうけど